お客様からの寄稿

― 出会いとふれあいの旅・・・感動と想い出の数々 ―
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アマダブラムの月  11月7日出発竹勝生様
私は日本山岳会高齢の図書交換会を楽しみにしており、毎年数十冊の本を申し込んでいる。
今年入手した本の中に、宮原巍さんの「ヒマラヤの灯」があり、夢中になって読んだ。
これはホテル・エベレスト・ビュー建設の記録で、著者自身が述べているように、正にアドベンチャーそのもので艱難辛苦の物語である。私達夫婦は8年前にこのホテルに宿泊しているが、この本に刺激されて再び訪れることにした。

ホテルのベランダから眺めるエベレスト、ローツェ、アマダブラムなどの大景観は記憶に新しいが、今回はそれに加えて満月の夜の景色を期待して、出発の日を決めた。

11月7日、成田を発ちバンコク、カトマンズ、ナムチェバザールを経て予定通り10日に標高3,800mに建つホテルに到着した。
午後の日差しに山々は燦然と光り輝き、特にホテル間近のタムセルク(6,608m)はヒマラヤ襞も鮮やかに聳え立ち圧巻であった。
家内はスケッチに余念なく、私はカメラで光の変化を追い続けた。

やがて山肌は金色から茜色へと眼の醒めるような色彩のドラマを展開して、アマダブラムの頂稜に最後の光芒を放って、青白い残照の帳に包まれた。
ここまでの眺めは前回同様、まことに感動的で何度見ても飽き足らないものだが、今回は更にこの後の満月とのコラボに期待が膨らんだ。
闇は次第に深まり、かすかな残照が白雪の山並みから消えようとしたその時、絶妙なタイミングで満月がアマダブラムの右肩から姿を現した。
深い藍色の空を背景に、かすかに残照の紅色に染まり颯爽とそそり立つアマダブラムに寄り添う白い月、予想以上の構図と色彩の妙にシャッターを押す手が震えるほどであった。

1951年シプトンのエベレスト探査隊報告書で紹介されて以来、この山はエベレスト街道を往来する登山者やトレッカーを魅惑し続けていて、多くの写真や絵画が発表されてきた。
ジョン・ハントはその著[エベレスト登頂の中で、タンボチェを世界で最も美しい土地の一つと称え、そこから眺めるアマダブラムについて「到底近づけなくみえた。マッターホルンの素晴らしい姿もかなわない。まずカラコルム奥地のムスタグ・タワーと比べてよいものである」と述べて絶賛している。
アマダブラムは1961年3月、エドモンド・ヒラリーを隊長とするニュージーランド隊によって登頂されたが、ヒラリーにとってこの山はエベレストに次ぐ最大の目標であったと思われる。

私はこの素晴らしい山の満月を写真に収めることができたが、これは極めて稀な機会であることを知ることになった。翌日の夜、再度の撮影を期待したが、月の出が50分ほど遅れ、その時は太陽がすっかり沈んでいて山は完全に闇に飲み込まれていた。私たちは幸運であった。
しかし、幸運は続かなかった。

その次の日から天候は悪化し、ルクラへ下った頃からは気温も下がり雪交じりの雨模様となった。カトマンズへの飛行機は欠航となり、暖房のないロッジで4日間停滞するはめとなった。家内は風邪をひき食欲が日増しに低下し気が気でなかったが、5日目にチャーターしたヘリコプターも途中のラミダラという寒村に着陸してしまい、牛小屋のような酷い部屋で一夜を過ごすことになった。
翌日やっとの思いでカトマンズに戻ったが、帰国の便が取れず、キャンセル待ちの人で空港は混雑していた。
季節外れの天候悪化で行き場を失った旅行客でホテルは満室となり、私たちは宮原さんの経営するホテルの社長室で宿泊させて頂いた。その夜、家内は高熱を発し身体の自由が利かなくなってしまった。宮原さんのお世話でカトマンズの病院に入院することになり、会社の車で日本語の通訳も付けて送り届けてもらった。
3日間の医師と看護婦の懇切丁寧な看護のお蔭で、VISAの期限ぎりぎりのところで退院でき、空港へ直行した。

幸いビジネスクラスに席が取れ、予定より8日遅れの帰国となった。
宮原さんはカトマンズ滞在中の毎日、手作りのお弁当を届けてくださった。それも入院の初日にはお粥、2日目はおじやを、3日目にはご飯をと、社長業のお忙しい中にもかかわらず、実にきめ細かい心遣いをしてくださり、地獄に仏とはこのことだと、本当に頭のさがる思いであった。

保険期間が切れて、高額の治療費でおちおち入院しておられない気分であったが、宮原さんが値引き交渉をして下さり、3割引きにしてもらった。ネパールでの買い物では値引き交渉は常識だと聞いていたが、まさか治療費まで値引きの対象になるとは驚きであった。
これは半世紀近くもネパールにかかわりネパールの国と人に尽くして来られた宮原さんだからこそ出来ることかもしれない。

登山も旅も予定通り行かなかった時のほうが想い出が深く得るところの多いものであるが、今回の旅はまさにそうであった。


ネパール | 14:57 | comments(0) | - | - | ログピに投稿する |
山崎雄一郎様:ジャヌーへのオマージュ

もうかれこれ6時間は歩いているだろうか。
カンバチェン(4090m)には後1時間弱は掛かるはずだが、きつい登りを最後の力を振り絞って登る。
道は左手の大きな山稜の中腹をトラバースして行くような感じで、右下は谷底まで大きく切れ落ちている。
すでに先行する仲間とはかなり遅れている。
先程までその姿は見えていたが、山襞を回り込んだところでその姿は見えなくなっていた。
私の後方からは更に遅れてKさんがシェルパと一緒に登って来るはずであるが、しかしその姿は見えない。
あたりはガスが濃くなり紺碧の青空はその僅かな切れ目に見えるだけである。

 2011/3/13。
今朝はグンサ(3450m)を6時に起床。
テント内の気温0度。快晴、ただし風強し。
血中酸素88/脈拍90。
8時出発。
木板造りのグンサ部落の民家はすばらしい。
最初に此の村に足を踏み入れたときは、遠い昔のメルヘンの世界にタイムスリップしたような感動を覚えた。
今まで何回もヒマラヤを訪れて来てようやく求めてた物に会えたような、そんな感慨をもって村の中を隈無く散策したのを覚えている。
村をあとにして樹林帯を1時間ほど登る。
一昨日降った雪が凍っていてスリップに注意して進む。
シャクナゲの蕾はまだ小さく硬い。
ヒマラヤの春はもう少し先のようだ。
樹林帯を抜けると急に前が開けて谷筋に出る。
遠く氷河より発した川面から吹き上げてくる風は、思わず身震いするような冷たさである。
谷筋の右岸道を何度も上り下りして少しずつ高度を上げる。
風は相変わらず冷たく強い。
最後に橋を左岸に渡ると開けたカルカに出た。
およそ高度は3720m. 12時30分ここで昼食。
日差しは結構あって暖かいが強い風とともに気温はかなり低くなってきたのか、むしろ簡易ダウンを着込む。
シェルパの作ってくれた昼飯を食べながら、みんな暫し和やかな時間を過ごす。
しかしこれからが本格的な登りが待っていた。

 今、前も後ろも人の気配は無く私と、私といつも行動を共にしているフルバ・シェルパだけである。
途中何枚か写真を撮って少し道草を食ってしまったな。
前に追いつこうと焦る気持ちはあるが、この高度だ無理は利かない。
 危険なガレ場を通過して登り詰めていると、右手前方に覆っていたガスが風にあおられて、そこに周囲の雪嶺と明らかに異にした岩峰の姿が現れた。
ジャヌーだ。
おお、あれが怪峰ジャヌーか。
その北壁は、まさにオペラ座の怪人が恰もマントを広げたような奇怪な姿を見せていた。
登行を進めるに従って、それは少しずつ山容を変えて神秘な姿を私の前にさらけ出した。
 私は歩みを止めた。腰を下ろしジャヌーに見入った。
7710mのあの高嶺から切れ落ちる垂直高度差3200mの北壁。
あの岩壁が、1976年山学同志会隊が落とした北壁なのか。
しかもその岩壁は赤みを帯びていて、垂直に落ちるその岩肌の中心部には殆ど雪が着いていない。
優雅にして幻妖、その不思議な魔性の魅力に見入って体が動かない。
もう前に追いつかねばという先程までの気持ちは、何処かに飛んでいってしまっていた。
何年もこの出会いを夢見てきて、ついに実現したなと胸が熱くなった。   
 
 何度もヒマラヤを訪れる度に、毎回厳しい登攀の苦しさに、嗚呼何でこんな苦しい事を敢えて自分はしているのだろうか、と自問する事がよくある。
決してそれを求めて来る訳ではないのだが、それはその先にある求める目的のためのプロセスに過ぎないのだが、心が挫けそうになることがたまにある。
それは年を重ねると共にだ。
其れを押して自分は何故再び山に入るのか、いつもその答えを見つけようとする自分がいる。
残された自分の人生をどう生きるのか。
今までの人生で仕事上も苦難を乗り越えてきたように、自分自身元気である限り、やはり何かに挑戦する気持ちは持ち続けたい。
そしてその苦しさを乗り越える事は、自分自身への証ではないだろうかと思う。
 私もフルバも無言のままでいた。
いま聞こえる音といえば谷から吹き上げてくる風の音だけである。
こうして雄大な自然の中に、座して荘厳なジャヌーの雄姿に感嘆している自分がいる。
まさに、ここにその答えの一つが有るように思える。

 カンバチェン16時15分着。
残照に燃えるジャヌーに見入っていると、左手前方の山塊の上に月が現れた。
やがて訪れる絢爛豪華な星屑の天体ショーを暗示した前触れなのか。
私は明日から更に高度を上げてのカンチェンジュンガへの旅に思わず身を引き締めて、そこに待ち受けるまだ見ぬ夢の実現に胸を躍らせるのであった。

***

 「北面からのジャヌーは登れる可能性は全くない。私が今まで見たうちで、この北壁のすさまじい断崖ほど、登攀の絶望的なものはない。」F・S・スマイス
                                              
今日、到着した地点から、ジャヌー7710メートルの絶頂は、まだ頭上1700メートルの高さでそそり立っていた。
危険に身をさらし、これから奪いとる1メートル、1メートルの苦闘を考えると、全く気の遠くなるような垂直の道が、はてしなく続いている。
 「俺たちはお前の頭上に、必ず全員で立ってやる!」荒れ狂う北壁に向かい、僕は胸の中で大声で叫んだ。
隊員十六名、シェルパ十一名、二十七人の勇敢な男たちと大北壁との、壮絶な闘いがいよいよ本格的に開始された。
小西 政継(ジャヌー北壁より)


カンバチェンよりジャヌー(左)


ジャヌー


荷物はヤクが運ぶ


ロナークよりパンペマ


パンペマよりカンチェンジュンガ


ミルギン・ラよりジャヌー


ミルギン・ラにて記念撮影


カンバチェン付近より大パノラマ。ジャヌーは中央


パンペマよりカンチェンジュンガ(雲のあたり)とウェッジピーク(右端の鋭鋒)

ネパール | 10:30 | comments(0) | - | - | ログピに投稿する |
第26日目:登米−花泉
ぼくのほそ道・俳句ing  通算 26日目  (登米-花泉) 地図1地図2地図3 

2010.04.22.()      曇り午後小雨 

 

宿舎(7:45)・・・(登米(とよま)町内散策)・・・芭蕉翁一宿之跡(9:30)・・・(10:55)長谷山(米谷大橋・11:00)・・・(12:45)弥勒寺(13:20)・・・(14:10)県境(宮城-岩手・14:20)・・・(17:00)花泉()

 

 

距離(Km)

徒歩時間

休憩・見学時間

歩数(千歩)

芭蕉が辿った道

23.6

5:45

0:25

32.0

その他(道草等)

5.3

   2:40

   0:25

   11.2

合  計

28.9

   8:25

   0:50

    43.2

 

芭蕉達は、登米(とよま)を発って一関まで42Kmを一日で歩いている。
ただし、芭蕉は半分近くは馬に乗っているが・・・。
私の過去の例で、一日に35Kmを越えるとかなり体力を消耗している。
また、後半の花泉から一関までの14Kmは、途中電車もバスもない道なので、無理をせず今日は花泉に泊まることにした。
 さらに後でその理由を述べるが、登米の町は時間をかけて詳しく散策してみたかったのである。

 

≪ 登米町散策 ≫

郵便番号簿を見ると、宮城県「登米市登米町」は、「とめとよままち」と仮名がふってある。同じ漢字を市と町で使い、その読み方が違うのは珍しい。
どうしてこのようになったのか興味があったが、現地で質問するのを忘れてしまった。

多くの観光用パンフレットに、登米町は「宮城の明治村」とか、「明治のロマン漂う町」と紹介されている。
町を歩いてみると、本当に明治時代に建てた建物が今も大切に管理されて残っていて、資料館などとして使われていた。
私は台湾在住時代(1997−2005)に、台北市やその郊外で総統府をはじめ、日本が統治していた時代の立派な建物が現役で活躍しているのを知った。
日本の古き良き時代の名残を台湾で見つけて感激し、もう日本では見られないだろうと思っていたので、あらためて心和む感を強めた。

小学校2年生の時(1945年・終戦の年)、東京の空襲が激しくなり、学童疎開が実施された。
私は甲府市郊外の叔母の家に、4歳上の兄と2人でお世話になり、一回り年上の姉と母が一ヶ月交代で一緒に住んでくれたので、あまり寂しいという思いはなかった。
しかし、集団疎開で親から離れて遠いところに行った仲間もいた。
私の小学校(杉並区立桃井第四小学校)の集団疎開先が、ここ登米だったのである。しかも、9歳年上の姉が女学校4年生(現在の高校1年生)で代用教員として、後に兄弟姉妹6人全員が皆卒業したこの母校の小学校に配属され、すぐに生徒を連れて登米に赴任したのである。
そんな訳で、登米は、おくのほそ道以外の話題にも興味があった。

 街中を詳しく散策するために、宿舎で入手した観光用の小冊子から、「登米町中心部マップ」を地図―3に載せておく。

登米は、その昔、「寺池城」を中心に栄えた城下町で、山や北上川という自然の要塞に囲まれていた。城のあった所は、現在は「寺池城址公園」となっている。

宿を出て、町屋敷通りを南に向かうと、突き当りの手前右角に明治時代に建てられた洋風の「警察資料館」があり、今にも「坊ちゃん」が柔道着でもぶらさげて出てきそうな雰囲気だ。


警察資料館(登米町)


昭和43年まで、「登米警察署庁舎」として使われていたそうである。入ってみたかったが、まだ時刻が早くて開館前だった。


 この資料館の正門前の道をさらに南に進み、坂を登ると「龍源寺」
があった。


龍源寺(登米町)

伊達家以前の400年間、この地を治めた葛西一族の菩提寺である。 櫻が見事に咲いていた。姉の話によると、集団疎開中、一部の先生がここで寝泊りしていたそうだ。

龍源寺を後にして、今度は西に進み、左手の階段を登りきると「登米八幡神社」があった。ここにはもう一つ「子育て神社」があり、前述の小冊子によると、「(この)花咲(はなさく)()(ひめの)(みこと)」が祭られて、階段の途中にある、樹齢300年の神木(ケヤキ)には、毎年フクロウが子育てのためにやってくるそうだ。 また境内には、芭蕉の句碑が建てられていた。


登米神社の芭蕉の句碑(登米町)

降ずとも 竹植る日は 蓑と笠

    ( 文字の判読はできなかったので、下記資料で調べた )

* 参考資料―13 によると、この句は「笈日記」に記載されている。

             中国では5月13日を「竹酔日」といい、その日に植えた竹は必ず根付くとされた。日本ではその時期は梅雨期なので、竹を植える日は雨が降らなくても蓑を着て、笠を被って植えようという意。

     参考資料―14 によると、この碑は明和7年(1770)に建立された。

登米八幡神宮は山の中腹にあり、街を見下ろせる眺めが良いところだった。ここから坂を下って北上すると、すぐに武家屋敷通りである


武家屋敷(登米市)

ところどころにある櫻が満開で城下町ならではの落ち着いた佇まいだった。

この武家屋敷通りのはずれに、「旧水沢県廰舎」があった


水沢県廰記念館(登米町)

案内板には以下のように記されていた。

旧水沢県庁舎は、明治四年七月に登米県廰舎として着工されたが、同年八月の廃藩置県により、同年十一月に一関県、同年十二月に水沢県が置かれ、翌明治五年六月に水沢県庁舎として開庁した建物である。

明治八年には、水沢県が廃止され盤井県となり県廰所在地が一関に移ったことから明治九年には登米村第一小学校へ下附され校舎として使用、また明治二十三年には登米裁判所として昭和のはじめまで使われたものである。

つまり登米は、江戸時代は城下町として、また明治のはじめからは行政の中心的な町であったらしい。


 36号線を西に100mばかり行くと右()側に、赤レンガの柱と白い扉の門があり、右側の柱に「旧登米高等尋常小学校校舎」、左側の柱に「教育資料館」と書かれていた



教育資料館(登米町)

その門の奥には、コの字型、2階建ての木造校舎があり、その中央はテラスになっていた。この建物は、昭和56年に「国の重要文化財」に指定されそうである。
私が通っていた小学校(桃四)も、校舎の中央にテラスがあったので、当時流行の建築様式なのかもしれない。
ここが、私の姉や仲間が集団疎開していた学校なのだ。
校舎の中を見学させてもらった。当時使っていた机、黒板、オルガン、大きなソロバンまで残されていた。
校長室で執務中の校長や、教室で授業をしている先生と生徒など等身大の人形が置かれていた。又、壁には楽譜入りの桃四の校歌や、先生、生徒の当時の集合写真が数枚貼ってあった。
残念ながら写真に姉は写っていなかったが、はっきりと顔を覚えている音楽の先生が写っていた。一般的なこのような資料館は何回も見ているが、身内や仲間が生活していた所となると、より一層リアルさが増して、それぞれの立場で苦難を耐えて来た当時を思い出しながら、時間の経つのを忘れて眺め入ってしまった。


 この「教育資料館」の門のそばに、「奥の細道一宿の地」と書かれた碑
が建てられていた。

教育資料館前の碑(登米町)

碑の左側には、蕉風の代表的な次の句碑が地面にはめ込まれていた。

 婦る池や 蛙飛込 水のおと     芭蕉

( 昭和57年建立)

また碑の右側には、「おくのほそ道」本文(第25日目参照)に書かれた、石巻から登米に向かう道中の地名の説明碑あり、以下のように刻まれていた。

 袖の渡り・・・石巻市住吉神社付近にある北上の渡し

 尾ぶちの牧・・・石巻の東部の丘陵

 まのの萱原・・・石巻市稲井真野

 戸伊摩・・・今の登米町 

 

街の散策の最後に、登米大橋の袂にある石碑(写真―8)のところへ行って見たら、曾良の「旅日記」に記載された 『 戸いま(伊達大蔵)、儀左衛門宿不借、仍検断告テ宿ス。検断庄左衛門 』の部分について以下のように書かれた案内板があった。


「芭蕉翁一宿之地」の碑(登米町)


   芭蕉翁一宿之跡

・・・・・前略。

登米は、伊達家の一門、伊達式部(2万1千石)の城下町である。曾良の「旅日記」の「儀左衛門、庄左衛門」は不明であり、「宿不宿」の詳細も知られていない。河東(かわひがし)(へき)梧桐(ごとう)六朝(ろくちょう)風の書体の「芭蕉翁一宿之跡」の碑は、もと検断屋敷跡に建てたものである。北上川の堤防工事で、屋敷跡が堤防の一角となってしまったのである。・・・・・後略。

65年前、私が集団疎開していたら、この地で生活していたのだなあと昔を偲びつゝ登米をあとにした。

 

弥勒寺(みろくじ)を通って花泉へ ≫

登米から、一関街道は北上川の右岸をまっすぐ北上している。
約6Kmほど先の川が蛇行しているところで左折して2Kmばかり西に向かい, 再び川に沿って北上するのだが、田圃の中の広い一本道に、目刺しの如くに鯉登りが飾られていた道につい迷い込んでしまい、その先の迷路のような細い道で、何回も人に尋ねながらやっと本来の街道に出られた。
また少し無駄足を踏んでしまった。

参考資料―11によれば、芭蕉達は、弥勒寺を通らず東側を辿っているが、弥勒寺には芭蕉の記念碑があるようなので、私はあえて弥勒寺ルートを歩いてみた。
弥勒寺は現地の案内板によれば、修験道の開祖・役の行者によって七世紀ころ草創され、弥勒菩薩は空海によって安置されたと伝えられている。
千体地蔵も安置されており、小高い山全部を敷地としている大きな寺のようだ。北側の門には、「芭蕉この道を通る」と刻まれた大きな石碑が建っていた



弥勒寺前の碑(登米市中田町)

厳密に言えば、参考資料―11のルート(地図―1の上部および地図―2の下部の赤い点線)と、この石碑のあるルート(地図―1の上部および地図―2の下部の青い線)のどちらを芭蕉達が歩いたのかを知りたいのだが、判断材料がないし、数百mの違いなので、「この辺りの道」を通ったと解釈することにしよう。

小雨が降り続く、人通りのない一関街道(342号線)を、ひたすら北上し、途中で宮城県から、おくのほそ道の7つ目の岩手県に入った。

 

≪ 今日の文章で引用した参考資料 ≫

参考資料―11 芭蕉「おくのほそ道」の旅・角川書店

参考資料―13 日本古典文学大形45、芭蕉句集・岩波書店

参考資料―14 全国文学碑総覧・紀伊国屋書店

 

≪ 今日の行程 (登米-花泉)で、おくのほそ道に記載された芭蕉、曾良の句 ≫

 

 なし

 

第25日目:石巻-柳津-登米

ぼくのほそ道・俳句ing  通算 25日目  (石巻-柳津-登米)
2010.04.21.(水)      曇り 

宿舎(7:30)・・・(8:15)日和山(8:40)・・・(9:15)再び宿舎(9:30)・・・(9:40)住吉公園(9:50)・・・(12:20)八雲神社・天王橋(12:30)・・・(13:20)休憩・昼食(13:40)・・・(14:00)芭蕉公園(14:05)・・・(14:40)合戦谷古墳・往復(15:10)・・・(16:00)虚空蔵尊・往復(16:20)・・・(18:50)登米(泊)

距離(Km) 徒歩時間 休憩・見学時間 歩数(千歩)
芭蕉が辿った道 30.2 8:20 1:30 56.9
その他(道草等) 4.6 1:30 0:00 6.3
合  計 34.8 8:50 1:30 63.2


 曾良の「旅日記」によれば、芭蕉達は、5月11日(陽暦6月27日)、石巻を出発して登米へ向かった。宿の「四兵へ」には彼等の他にもう一人別の客が泊まっており、四兵へと一緒に気仙沼へ行くため、4人が柳津まで道中を共にした。 私は彼らが前日に立ち寄った石巻市内の「日和山」を散策したり、宿「四兵へ」の跡地を探したりした後、北上川を遡り登米に向かった。

≪石巻市内の散策≫
日和山公園は、旧北上川(*)が石巻湾に流れ出る河口近くの、小高い眺めの良い丘の上にあり、櫻も丁度見ごろで、市民の憩いの場となっている。
現地の案内板によると、昭和58年(1983)の発掘調査により、ここに大規模な城があったことが確認された。
文治五年(1189)の奥州合戦の恩賞として、源頼朝の家人「葛西清重」がこの地域の数箇所の所領を給付され、以後豊臣秀吉によって滅ぼされるまでの約400年の間、葛西一族の居城であったと伝えられているが、実態は明らかでないそうである。
ここには、芭蕉と曾良の二人の銅像や、次の「おくのほそ道」俳文脾が建っていた。
  芭蕉・曾良の銅像(石巻・日和山)

平和泉(ひらいずみ)と心ざし・・・(中略)・・・石巻といふ湊に出(いづ)。こがね花咲とよみて奉(たてまつり)たる金花山海上に見渡わたし、数百の廻船(くわいせん)入江につどひ、人家地をあらそひて竈の煙立(たち)つゞけたり。
                                              ―おくの細道―

その他、石川啄木、宮沢賢治、斉藤茂吉、新田次郎、折口信夫等の碑が建っていた。
尚、参考資料―13、14によると、この公園内にある鹿島御児神社には、下記の芭蕉の句碑があるそうだが、準備不足で見逃してしまった。
雲折ゝ 人を休める 月見かな   ( 「弧松」より。 延享五年・1748建立 )

* 参考資料―12および柳津大橋の袂にある津山町作成の案内板によると、北上川は過去2回大きな工事を行いその流れが変わっている。

1回目:寛永3年(1626・芭蕉がおくのほそ道に出かける63年前)、柳津―飯野川―追波湾と流れていたのを、北上川水域の米を石巻港で船積みするために、柳津から西に迂回して鹿又経由で石巻に向かうルートに変更した。
2回目: 明治44年(1911)〜昭和07年(1932)、水害対策として柳津―飯野川間を開削し本流を、再びもとにもどした。従って、現在は、柳津―飯野川―追波湾と流れる川を「北上川」と呼び、柳津―鹿又―石巻と流れる川を「旧北上川」と呼んでいる。

曾良の「旅日記」によれば、芭蕉達は、石巻では「新田町の四兵へ」宅に泊まった。
参考資料―11の地図の駅近くに、「芭蕉一宿の地」と書かれていたので、何か案内板でもあるかと思い、日和山を後にして再び繁華街に戻った。
途中で丁度交番があったので尋ねてみたら、担当の巡査は最近この地に赴任してきてよくわからないと云い、この地を良く知っている人がいる近くの商工会議所に行くように薦めてくれた。
商工会議所では、数人が集まって議論してくれたが、そのうちの一人がグランドホテル(私が泊まっていたホテル)のそばに何かあるらしいことを教えてくれた。
そこで振り出しに戻って、ホテルのロビーの係員に聞いてみたら、電話でどこかに確認してくれて、当ホテルの敷地にある、「旧町名 新田町」と書かれた標識の裏にそれらしきことが書いてあることを確認してくれた。


一宿の地(石巻・グランドホテル)

標識の裏側は、壁との間のスペースが狭く、写真を取ることも出来ず、小さい字でおまけに斜めにしか見えないのでとても読みにくい。
さきほど電話で確認してくれた先に連絡して、何と書いてあるか調べてくれないかとお願いしたら(よくもずうずうしく頼んだものだと後悔している)、別の人が、紙とペンを持って狭いところで、その文章を丹念に写し取ってくれた。それを以下に記す。

 元禄二年五月十日、奥の細道の旅で石巻を訪れた芭蕉と曾良は、日和山からの眺望を楽しみ、住吉神社に参詣後、新田町の四兵へ宅に一泊した。 安永ニ年(*1773年)三月の「安永風土記書出」には家数五十二軒と記されている。  建設者 石巻教育委員会  昭和57年3月

交番のお巡りさん、商工会議所の方々、そしてホテルの従業員とバトンタッチされて、やっと「芭蕉一宿の地」がこの辺りであることが確認でき、証拠の資料も見つけられた。
福島駅前「ふれあい歴史館」の受付嬢が、芭蕉の句碑を探すのに協力してくれたことを思い出し、またまた心温まる思いをした。
忙しい方々が、こんな道楽者の要望に応えて下さったことに感謝の念でいっぱいです。
 ほのぼのとした気持ちでホテルを後にして、芭蕉達も訪れた住吉神社に向かった。
途中、再度交番の前を通ったので、お礼方々報告をしてきた。

ホテルから近く、旧北上川の岸辺にある住吉神社には、「袖の渡り」の碑がある。


袖の渡しの碑(石巻・住吉神社)

 この名は、義経が平泉に赴く途中、この地で渡し舟に乗ったとき、船賃として片一方の小袖をちぎって支払ったことに由来するそうである。
近くには「石巻」の名前の由来となった「巻石」もあった。

≪ 北上川を遡る ≫
石巻から一関(*)まで、芭蕉達は「一関街道」を辿った。
石巻郊外から登米まで一関街道は北上川に沿っている。
しかし、石巻市街地域では、どこにこの街道があるか市販の地図には記載されていないし、道路標識もない(正確に言えば、ないのではなく見つからなかった)ので、バイブルにしている「参考資料-11」の地図に記されたルートを基本にして、詳しくは五万分の一の地図で旧道らしき道を選びながら、日本一長いと言われている「石巻運河」が合流する地点で旧北上川の土手に出た。
ここからは、右手に川を、左手には広々とした田圃を見ながら、いくら歩いてもちっとも景色の変わらないところを亀のように焦らずに進む。
途中に「一関街道」と書かれた立派な道標があり、道を間違えていないことが確認できた。


一関街道道しるべ(石巻市鹿又)

* JRの駅名としては、「一ノ関」と片仮名の「ノ」が入っているが、市の名前や地名の表示には
「一関」と「ノ」の字が入っていないので、ここでは後者を使うことにする。ちなみに、「いしのまき」のJRの駅名は「石巻」と表示されていた。いやはや、日本語の固有名詞は難しいものだ。

土手を歩くこと約6Km、北東から追波川が合流し、旧北上川が大きく左(西)へ曲がっているところにある天王橋の手前に「八雲神社」があり、そこの境内に芭蕉の以下の句碑があった。


芭蕉の句碑(鹿又・八雲神社)

川上と この川下や 月の友
* 参考資料―13によると、この句は「続猿蓑」に記載され、この句の川とは、深川の小名木川のことで、北上川とは関係がないようだ。
* 参考資料―14によると、この碑は文政9年(1826)に建立されたそうである。

この八雲神社のところで、一関街道は45号線と合流し、約15Km先の柳津まで続く。
合流してすぐに 旧北上川にかかる天王橋を渡り、さらに北上川にかかる飯野川橋を渡り北上川の左岸を辿る。
道が緩やかな登りになったところに、「芭蕉公園」と書かれたカラフルな大きな看板があり、北上川を見渡せる広場があった。
長い文章が書かれた案内板があったが、古くて文字がほとんど判読できなかった。
最後の方に、「河北地区教育委員会」という文字と、地図に「合戦谷沼」と書かれていることがかろうじてが解かった。
「おくのほそ道」本文に、

明れば又しらぬ道まよひ行く。
袖のわたり・尾ぶちの牧・まのゝ萱はらなどよそめにみて、遙かなる堤を行く。心細き長沼にそふて、戸伊摩(*現在の登米)と云う所に一宿して、平泉に到る。其間廿余里ほどとおぼゆ。

と書かれているので、きっと「心細き長沼」がこのあたりであることの説明ではないかと想像した。
( 袖の渡り・尾ぶちの牧・まのの萱はらなどの地名の現在名は、登米の「教育資料館」前の案内板で説明されていたのでそこで述べる。26日目参照)

芭蕉達がここを歩いた頃、北上川の本流はもっと西にあったので、この辺りは細長い沼が沢山あったのであろう。
曾良は、「長キ沼有」と表現しているので、芭蕉の言う「長沼」は固有名詞ではなく、長い沼のことであろう。
その沼の名前が「合戦谷沼」だったのかもしれない。
芭蕉はこの間の20余里については、これ以外なにも記述していない。
この長い沼(現在は本流であるから蕩蕩と流れている)に沿って、芭蕉公園から数Kmの右手奥に合戦谷古墳や雷神社があり、またその近くには東北の俳人「遠藤日人(あつじん)」の句碑などがあった。
更に4Kmほど先に、「柳津虚空蔵尊」(日本三大虚空蔵尊の一つ)が有り、その入口には、大伴家持の 「鵲の渡せる橋に・・・」の歌がここで詠まれたと以下のように説明されていた。

 町指定文化財  柳津虚空蔵尊の鵲橋
・・・(前略)。
大伴中納言家持が征夷大将軍として、多賀城に在任中この地を訪れ、百人一首に詠まれ永く世の人に親しまれてきた。
この歌は、柳津虚空蔵尊に至る入口の大鳥居の山根際に参道があって、ここにかかる橋の上で詠まれたと伝えられている。
「 鵲(かささぎ)の 渡せる橋に おく霜の  白木を見れば  夜ぞ更けにける 」
平成15年4月1日指定  津山町教育委員会

梅津 保先生(山形県立米沢女子短期大学講師)が、「おくのほそ道」入門講座で言われた、「伝説は疑ってはいけませんよ!」という言葉をふと思い出してしまった。

更に2kmばかり遡ると、左手に、北上川本流にかかる「柳津大橋」があり、そのすぐ先で旧北上川が分かれて西へと向かっている。
鹿又からここまでは、「一関街道」は45号線として北上して来たが、45号線は柳津から東の気仙沼へと向かう。
 「一関街道」はまっすぐ北上を続けここからは342合線として、登米・平泉方面に向かう。
柳津大橋の手前右側に「おくのほそ道の碑」があり、本文の「明くれば又知らぬ道を・・・・ 戸伊麻といふところに一宿して平泉に到る」の部分が刻まれていた(前頁参照)。


おくのほそ道の碑(柳津)

柳津の街を通り過ぎてすぐの右手奥に「おくのほそ道」の碑があると何かの参考資料に書いてあったように記憶していたので、342号線から離れて細い道を入って行った。
畑仕事をしている人に聞いてみたが、結局この辺りには何もないと解かり無駄足を踏んでしまった。
 土手の上の342号線には歩道はなく、大きな車が頻繁に通るので、右手(東側)の田圃の中の旧道と思われる道を辿った。
 登米大橋を渡った時はもう薄暗くなっていた。今日の終点の「芭蕉翁一宿之跡」はそのすぐそばにあった。 

≪ 今日の文章で引用した参考資料 ≫
参考資料―11 芭蕉「おくのほそ道」の旅・角川書店
参考資料―13 日本古典文学大系45、芭蕉句集・岩波書店
参考資料―14 全国文学碑総覧・紀伊国屋書店

≪ 今日の行程 (石巻-柳津-登米)で、おくのほそ道に記載された芭蕉、曾良の句 ≫

なし
  

エベレスト街道カラパタール
佐藤重雄様より、カラパタールのお写真を頂きました。

 
モンラからカンテガ(6,685m)とタムセルク(6,608m)



パンボチェから、アマダブラム(6,856m)


タシンガより、タムセルク(6,608m)


カラパタールからエベレスト(8,848m)とヌプツェ(7,855m)


カラパタールからエベレスト(8,848m)
ネパール | 16:35 | comments(0) | - | - | ログピに投稿する |

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