ぼくのほそ道・俳句ing 通算 25日目 (石巻-柳津-登米)
2010.04.21.(水) 曇り
宿舎(7:30)・・・(8:15)日和山(8:40)・・・(9:15)再び宿舎(9:30)・・・(9:40)住吉公園(9:50)・・・(12:20)八雲神社・天王橋(12:30)・・・(13:20)休憩・昼食(13:40)・・・(14:00)芭蕉公園(14:05)・・・(14:40)合戦谷古墳・往復(15:10)・・・(16:00)虚空蔵尊・往復(16:20)・・・(18:50)登米(泊)
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距離(Km) |
徒歩時間 |
休憩・見学時間 |
歩数(千歩) |
| 芭蕉が辿った道 |
30.2 |
8:20 |
1:30 |
56.9 |
| その他(道草等) |
4.6 |
1:30 |
0:00 |
6.3 |
| 合 計 |
34.8 |
8:50 |
1:30 |
63.2 |
曾良の「旅日記」によれば、芭蕉達は、5月11日(陽暦6月27日)、石巻を出発して登米へ向かった。宿の「四兵へ」には彼等の他にもう一人別の客が泊まっており、四兵へと一緒に気仙沼へ行くため、4人が柳津まで道中を共にした。 私は彼らが前日に立ち寄った石巻市内の「日和山」を散策したり、宿「四兵へ」の跡地を探したりした後、北上川を遡り登米に向かった。
≪石巻市内の散策≫ 日和山公園は、旧北上川(*)が石巻湾に流れ出る河口近くの、小高い眺めの良い丘の上にあり、櫻も丁度見ごろで、市民の憩いの場となっている。
現地の案内板によると、昭和58年(1983)の発掘調査により、ここに大規模な城があったことが確認された。
文治五年(1189)の奥州合戦の恩賞として、源頼朝の家人「葛西清重」がこの地域の数箇所の所領を給付され、以後豊臣秀吉によって滅ぼされるまでの約400年の間、葛西一族の居城であったと伝えられているが、実態は明らかでないそうである。
ここには、芭蕉と曾良の二人の銅像や、次の「おくのほそ道」俳文脾が建っていた。

芭蕉・曾良の銅像(石巻・日和山)
平和泉(ひらいずみ)と心ざし・・・(中略)・・・石巻といふ湊に出(いづ)。こがね花咲とよみて奉(たてまつり)たる金花山海上に見渡わたし、数百の廻船(くわいせん)入江につどひ、人家地をあらそひて竈の煙立(たち)つゞけたり。
―おくの細道―
その他、石川啄木、宮沢賢治、斉藤茂吉、新田次郎、折口信夫等の碑が建っていた。
尚、参考資料―13、14によると、この公園内にある鹿島御児神社には、下記の芭蕉の句碑があるそうだが、準備不足で見逃してしまった。
雲折ゝ 人を休める 月見かな ( 「弧松」より。 延享五年・1748建立 )
* 参考資料―12および柳津大橋の袂にある津山町作成の案内板によると、北上川は過去2回大きな工事を行いその流れが変わっている。
1回目:寛永3年(1626・芭蕉がおくのほそ道に出かける63年前)、柳津―飯野川―追波湾と流れていたのを、北上川水域の米を石巻港で船積みするために、柳津から西に迂回して鹿又経由で石巻に向かうルートに変更した。
2回目: 明治44年(1911)〜昭和07年(1932)、水害対策として柳津―飯野川間を開削し本流を、再びもとにもどした。従って、現在は、柳津―飯野川―追波湾と流れる川を「北上川」と呼び、柳津―鹿又―石巻と流れる川を「旧北上川」と呼んでいる。
曾良の「旅日記」によれば、芭蕉達は、石巻では「新田町の四兵へ」宅に泊まった。
参考資料―11の地図の駅近くに、「芭蕉一宿の地」と書かれていたので、何か案内板でもあるかと思い、日和山を後にして再び繁華街に戻った。
途中で丁度交番があったので尋ねてみたら、担当の巡査は最近この地に赴任してきてよくわからないと云い、この地を良く知っている人がいる近くの商工会議所に行くように薦めてくれた。
商工会議所では、数人が集まって議論してくれたが、そのうちの一人がグランドホテル(私が泊まっていたホテル)のそばに何かあるらしいことを教えてくれた。
そこで振り出しに戻って、ホテルのロビーの係員に聞いてみたら、電話でどこかに確認してくれて、当ホテルの敷地にある、「旧町名 新田町」と書かれた標識の裏にそれらしきことが書いてあることを確認してくれた。

一宿の地(石巻・グランドホテル)
標識の裏側は、壁との間のスペースが狭く、写真を取ることも出来ず、小さい字でおまけに斜めにしか見えないのでとても読みにくい。
さきほど電話で確認してくれた先に連絡して、何と書いてあるか調べてくれないかとお願いしたら(よくもずうずうしく頼んだものだと後悔している)、別の人が、紙とペンを持って狭いところで、その文章を丹念に写し取ってくれた。それを以下に記す。
元禄二年五月十日、奥の細道の旅で石巻を訪れた芭蕉と曾良は、日和山からの眺望を楽しみ、住吉神社に参詣後、新田町の四兵へ宅に一泊した。 安永ニ年(*1773年)三月の「安永風土記書出」には家数五十二軒と記されている。 建設者 石巻教育委員会 昭和57年3月
交番のお巡りさん、商工会議所の方々、そしてホテルの従業員とバトンタッチされて、やっと「芭蕉一宿の地」がこの辺りであることが確認でき、証拠の資料も見つけられた。
福島駅前「ふれあい歴史館」の受付嬢が、芭蕉の句碑を探すのに協力してくれたことを思い出し、またまた心温まる思いをした。
忙しい方々が、こんな道楽者の要望に応えて下さったことに感謝の念でいっぱいです。
ほのぼのとした気持ちでホテルを後にして、芭蕉達も訪れた住吉神社に向かった。
途中、再度交番の前を通ったので、お礼方々報告をしてきた。
ホテルから近く、旧北上川の岸辺にある住吉神社には、「袖の渡り」の碑がある。

袖の渡しの碑(石巻・住吉神社)
この名は、義経が平泉に赴く途中、この地で渡し舟に乗ったとき、船賃として片一方の小袖をちぎって支払ったことに由来するそうである。
近くには「石巻」の名前の由来となった「巻石」もあった。
≪ 北上川を遡る ≫
石巻から一関(*)まで、芭蕉達は「一関街道」を辿った。
石巻郊外から登米まで一関街道は北上川に沿っている。
しかし、石巻市街地域では、どこにこの街道があるか市販の地図には記載されていないし、道路標識もない(正確に言えば、ないのではなく見つからなかった)ので、バイブルにしている「参考資料-11」の地図に記されたルートを基本にして、詳しくは五万分の一の地図で旧道らしき道を選びながら、日本一長いと言われている「石巻運河」が合流する地点で旧北上川の土手に出た。
ここからは、右手に川を、左手には広々とした田圃を見ながら、いくら歩いてもちっとも景色の変わらないところを亀のように焦らずに進む。
途中に「一関街道」と書かれた立派な道標があり、道を間違えていないことが確認できた。

一関街道道しるべ(石巻市鹿又)
* JRの駅名としては、「一ノ関」と片仮名の「ノ」が入っているが、市の名前や地名の表示には
「一関」と「ノ」の字が入っていないので、ここでは後者を使うことにする。ちなみに、「いしのまき」のJRの駅名は「石巻」と表示されていた。いやはや、日本語の固有名詞は難しいものだ。
土手を歩くこと約6Km、北東から追波川が合流し、旧北上川が大きく左(西)へ曲がっているところにある天王橋の手前に「八雲神社」があり、そこの境内に芭蕉の以下の句碑があった。

芭蕉の句碑(鹿又・八雲神社)
川上と この川下や 月の友
* 参考資料―13によると、この句は「続猿蓑」に記載され、この句の川とは、深川の小名木川のことで、北上川とは関係がないようだ。
* 参考資料―14によると、この碑は文政9年(1826)に建立されたそうである。
この八雲神社のところで、一関街道は45号線と合流し、約15Km先の柳津まで続く。
合流してすぐに 旧北上川にかかる天王橋を渡り、さらに北上川にかかる飯野川橋を渡り北上川の左岸を辿る。
道が緩やかな登りになったところに、「芭蕉公園」と書かれたカラフルな大きな看板があり、北上川を見渡せる広場があった。
長い文章が書かれた案内板があったが、古くて文字がほとんど判読できなかった。
最後の方に、「河北地区教育委員会」という文字と、地図に「合戦谷沼」と書かれていることがかろうじてが解かった。
「おくのほそ道」本文に、
明れば又しらぬ道まよひ行く。
袖のわたり・尾ぶちの牧・まのゝ萱はらなどよそめにみて、遙かなる堤を行く。心細き長沼にそふて、戸伊摩(*現在の登米)と云う所に一宿して、平泉に到る。其間廿余里ほどとおぼゆ。
と書かれているので、きっと「心細き長沼」がこのあたりであることの説明ではないかと想像した。
( 袖の渡り・尾ぶちの牧・まのの萱はらなどの地名の現在名は、登米の「教育資料館」前の案内板で説明されていたのでそこで述べる。26日目参照)
芭蕉達がここを歩いた頃、北上川の本流はもっと西にあったので、この辺りは細長い沼が沢山あったのであろう。
曾良は、「長キ沼有」と表現しているので、芭蕉の言う「長沼」は固有名詞ではなく、長い沼のことであろう。
その沼の名前が「合戦谷沼」だったのかもしれない。
芭蕉はこの間の20余里については、これ以外なにも記述していない。
この長い沼(現在は本流であるから蕩蕩と流れている)に沿って、芭蕉公園から数Kmの右手奥に合戦谷古墳や雷神社があり、またその近くには東北の俳人「遠藤日人(あつじん)」の句碑などがあった。
更に4Kmほど先に、「柳津虚空蔵尊」(日本三大虚空蔵尊の一つ)が有り、その入口には、大伴家持の 「鵲の渡せる橋に・・・」の歌がここで詠まれたと以下のように説明されていた。
町指定文化財 柳津虚空蔵尊の鵲橋
・・・(前略)。
大伴中納言家持が征夷大将軍として、多賀城に在任中この地を訪れ、百人一首に詠まれ永く世の人に親しまれてきた。
この歌は、柳津虚空蔵尊に至る入口の大鳥居の山根際に参道があって、ここにかかる橋の上で詠まれたと伝えられている。
「 鵲(かささぎ)の 渡せる橋に おく霜の 白木を見れば 夜ぞ更けにける 」
平成15年4月1日指定 津山町教育委員会
梅津 保先生(山形県立米沢女子短期大学講師)が、「おくのほそ道」入門講座で言われた、「伝説は疑ってはいけませんよ!」という言葉をふと思い出してしまった。
更に2kmばかり遡ると、左手に、北上川本流にかかる「柳津大橋」があり、そのすぐ先で旧北上川が分かれて西へと向かっている。
鹿又からここまでは、「一関街道」は45号線として北上して来たが、45号線は柳津から東の気仙沼へと向かう。
「一関街道」はまっすぐ北上を続けここからは342合線として、登米・平泉方面に向かう。
柳津大橋の手前右側に「おくのほそ道の碑」があり、本文の「明くれば又知らぬ道を・・・・ 戸伊麻といふところに一宿して平泉に到る」の部分が刻まれていた(前頁参照)。

おくのほそ道の碑(柳津)
柳津の街を通り過ぎてすぐの右手奥に「おくのほそ道」の碑があると何かの参考資料に書いてあったように記憶していたので、342号線から離れて細い道を入って行った。
畑仕事をしている人に聞いてみたが、結局この辺りには何もないと解かり無駄足を踏んでしまった。
土手の上の342号線には歩道はなく、大きな車が頻繁に通るので、右手(東側)の田圃の中の旧道と思われる道を辿った。
登米大橋を渡った時はもう薄暗くなっていた。今日の終点の「芭蕉翁一宿之跡」はそのすぐそばにあった。
≪ 今日の文章で引用した参考資料 ≫
参考資料―11 芭蕉「おくのほそ道」の旅・角川書店
参考資料―13 日本古典文学大系45、芭蕉句集・岩波書店
参考資料―14 全国文学碑総覧・紀伊国屋書店
≪ 今日の行程 (石巻-柳津-登米)で、おくのほそ道に記載された芭蕉、曾良の句 ≫
なし